西山猛郎(Takeo Nishiyama)
海上自衛隊幹部候補生学校卒業、P-3C対潜哨戒機 対潜武器担当。防衛省本省勤務で退官。
モロッコ合氣道財団主宰及び技術指導責任者(モロッコ内務省,文化省,スポーツ省,公認団体)。
ドバイ合氣道連盟技術指導責任者,ドバイポリスアカデミー武道講師。
西山丈夫塾主宰。
-10年前の幹部自衛官対象の講話資料として-
精神基盤の喪失と武道の方向性
副題:(絶望の闇の中で進路を指し示す僅かな一条の光に武道は成り得るか)
*序文(視点の設定)
国家は人種、地理的、経済的、歴史的側面だけで存在するものではなくて、寧ろそこから立ち現われる宗教的思想、信条、哲学等の精神的側面において存在しうるものである。
国家の存続においてはその精神的基盤が人間存在の普遍性に合致するか否かが大きな問題となる。例えば、人の死を超えて永遠に存在し続けるもの、人知をはるかに超えた力に対する畏敬の念、つまり「信仰心」なくして人間は品格を保てない様に、国家もそれ無くしては「力による独裁」と「利害関係」からなる集団でしかないと言える。
歴史ある国家にそれぞれの建国の物語つまり「神話」が存在するのは此の為である。
有史以来、国家の滅亡は極端な天変地異以外、戦争も含め国家間の精神的基盤、互いの信仰心の衝突とそれ自身の頽廃に端を発している。
人間において、しばしば身体的崩壊より精神的崩壊、つまり失望、希望や理想の喪失が生命の存続に危機を与える様に、国家もその精神的側面の充実と喪失が繁栄と衰退、ひいては滅亡に大きく影響を与えものである。
*我が国の一現状
さて、物質的側面において繁栄を極めている我が国において、1995年~2005年の11年間の餓死者総数は867人であった。一方、同11年間で30万人を超える自殺者が発生している(厚生労働省調べ)。
現在もなお毎年、3万を軽く超える数の国民が自ら命を絶っている(正確には5万~10万人とも言われている)。これは国民の精神的崩壊が生んだ国家的悲劇である、しかもこの悲劇は現在進行形で止むところを知らない。
因みに日露戦争の戦没者は8万8千人。我が国は「平和」と「人権」と「命の尊さ」を謳いながら、静かに「自滅」している様に見えるのだが・・・・。
*原因とその周辺
明治期以前、我が国は太陰暦(正確には太陽太陰暦)を用いていた。月齢のリズムが稲作の各工程のリズムを決定し、よって国民の生活と同時に精神のリズムもそれに共鳴していた。
明治5年、時の政府は西洋文明を吸収、模擬して日本の近代化を推し進める為、歴を変更。西洋と同じく太陽暦とする。満ち欠けを行う曖昧な月のリズムから、厳格で規則正しい太陽のリズムを取り入れたのである。
短期間に極端な近代化を図る為にはやむを得ない選択ではあったが、このリズムの変更は日本人の意識、精神のリズムに少なからぬダメージを与えた。この時期、歴だけではなく、廃仏毀釈、神社の再統合、鎮守の森の消失、同時に宗教行事の消失等、国の精神的基盤の象徴と言えるものの再編と変更そして、あろうことか否定が行われたのである。
当然、「衣」「食」「住」もそれに付随して大きく変化した。国民の多くは眩暈を感じる程の物心両面の激変の中、ただ盲従するほか道は無かったのである。
国を挙げて己のリズムを捨て、相手のリズムに同調する。相手のリズムとは近代合理主義の基盤であるキリスト教を主とした欧米文化圏、直線的で排他的な力強い男性的な一神教のリズム。己のリズムとは2600年を超える「皇統」、「神道」、「随神の道」そして後に融合した「仏教」を基盤とした一見曖昧で、たおやかな、しかし中心を確り定めた多神教のリズムである。
人にそれぞれの生い立ちがあり、それゆえの個性があり、生活、人生のリズムが存在する、これを「宿命」と呼ぶ。先に述べた様に国家においても逃れられぬ「宿命」が厳然と存在する。
図らずも、明治維新は過去から続く我が国の「宿命」に背く革命であった。
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」これは「論語、子路」の有名な一節である。君子たるもの仲良くはするが己の思想、信条、哲学を変えてまで仲良くすることはしない。中心を捨ててまでの同調は「和」ではなく「同化」、「隷属」ではないか。逃れられぬ「宿命」を無視して、ただ只管に西洋近代主義に同調した我が国が現在どの様な状況に陥っているか、その一例は先に挙げた通りである。
*武道精神の喪失と現状
さて、ここで視点を武道に向けよう、武道もそこから昇華された武士道も我が国がもつ神道を柱とした2千年を超える精神的基盤、神代のリズムから生まれたものである。
明治期末までの武道家は一律、神道を敬いその求道の過程において多くの神々を崇拝し、畏れ、またその加護に感謝した。稽古前後に行われる神事は、空気を吸い、水を飲む事の様に至極自然な行為であった。彼らの中にある精神的基盤は国家のそれと同じものであったといえる。極端に言えば国家の「宿命」と己の「宿命」を同一視していた。国家と己は運命共同体ならぬ宿命共同体であったのである。
明治維新の大変革により武道の精神的基盤は国家のそれと運命を共にする。明治期末まではその残像が窺えたが、大東亜戦争の敗戦、その後のGHQ占領政策により壊滅的打撃を受ける。約7年間、武道そのものの活動が大きく制限され武道精神の基盤であるところのものは悉く排斥され、否定され、隠された。GHQが去る1952年4月28日までの間に殆ど全ての武道はその精神的輝きを失ったか、その表現の場を失くしたのである。
まさに精神面での敗戦。残ったのは競技的側面、健康維持的側面、護身的側面等の効用をまるで御題目の様に唱える、芯の無い抜け殻の様な「武道」とは呼べない横文字の「BUDO」。
武道精神を説いた専門書は焚書対象となり、多くの武道実践者はその精神的教えに対して「見ざる」、「聞かざる」、「言わざる」の状況に陥った。武道の「道」、精神の要素は消滅して「武」の技法のみとなってしまったのである。
事実、文部科学省(前文部省)の中学学習指導要領からは「武道」の文字は削除され、新たに「挌技」と言う珍奇な表現が登場する。全国の中学校、一部公共施の「武道場」は「挌技場」に名称を変えた。この学習指導要綱に「武道」の文字が復活するのはなんと1989年(平成元年)になってからである。GHQ呪縛は今日もなお解けていない、「呪縛」を解くためには「問題の自覚」が必須なのだがいまだに多くの武道実践者に「問題の自覚」がなされていない。
例えば今日、武道実践者の多くが武道の目的の第一に「健康の維持」を何の疑問もなく挙げるのである、更に「ダイエットに効果的」などと言う輩も後を絶たない。この様な身体的効用は精神の陶冶の後、副次的に生じるものであって本来目的には成り得ないはずである。高齢化対策と会員確保の為とはいえ、その目的が「健康維持」や「ダイエット効果」ならばエアロビクスやダンスの方がはるかに有効なのではないか。
武道発祥の国は我が国、日本である。この総本家で多くの武道実践者が現在、武道の何たるかを「知らない」、「忘れている」、「言わない」又は「言えない」状況にある。戦後70年今なお続くこの精神的閉塞感は何であろうか。命を懸けて精進してきた先人たちにこれ程の無礼があるだろうか。「過去を否定する者に未来は無い」これは歴史の事実である。
日本の精神的基盤である「神道」、2600年を超える「皇統」、「神話」、「言霊」、「随神の道」等これら歴史的信仰心を語らずして武道を語ることが出来るのだろうか。更にこの信仰心無くして武道を業ずる意味があるのだろうか。
*結論(方向性)
武道を業ずるとは、日本の精神的基盤を身体で習得するということである。またそれは道を同じくした過去の多くの先人達と今、此処において交流することであり、更に未来向かってその精神的基盤を進化、創造していくことでもある。
以上の方向性において初めて武道は日本の精神的基盤の復興に貢献出来るのであり、また、その目的達成の為に武道は存在するものでなければならない。
*結びにかえて
「人間の文明社会は“幾世代にわたる無意識の人間の行為”で形成されたものであって、“人間の知力”で設計されたものではない。
“幾世代にわたる無意識の人間の行為”と“神の摂理”との共同作業において開花し、発展し、成長した偉大なものが文明の社会である。」
Edmund Burke
(イギリスの哲学、政治学者 1797年没)
Fondation Nishiyama
代表 西山 猛郎